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同調圧力、悪の平凡さ、思考の風


近年、「同調圧力」という言葉をよく耳にするようになりました。


同調圧力とはいったい何でしょうか?


Googleで検索すると、こんな説明がでてきました。


「集団において、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制すること」


よく、日本人は同調圧力が強いと聞きますが、本当にそうなのでしょうか?


同調圧力は英語で「ピアプレッシャー (peer pressure)」と言います。


ピアプレッシャー (peer pressure)について調べてみると、日本語の「同調圧力」とほぼ同じ解釈もありましたが、こんな説明もありました。


「心理学においてピアプレッシャー(同調圧力)とは、社会集団の構成員が互いに及ぼす影響のことである。

この影響は直接的であることも間接的であることもあり、肯定的であることも否定的であることもある。」


「同調圧力は、思考、意見、感情に影響を与えることもある。

例えば、テレビ番組は一般大衆に、自分が取るべき行動を伝えることができる。」


同調圧力は、国家、民族、職場、学校、ママ友、友人、隣人といった、集団の種類や規模に関係なく、世界中どこにでもさまざまな形で存在しています。


私達人間は誰でも、程度の差こそあれ、集団の中で圧倒的な存在感を示している人の意見に従いたくなったり、多数派の意見に流されたり、たとえそれが本当に自分が望んでいることではなくても、恐怖心から多数派の圧力に屈したりする傾向を持っています。


同調圧力の最も恐ろしいところは、たとえ自分が本当に正しいと思っていなくても、それをすることに違和感を感じていても、周りのみんなが強く勧めたり、周りのみんながやっていたりすると、自分の内なる声を無視して、『みんなが勧めるのなら、みんながやっているのなら、大丈夫に違いない』と、他人の声を自分の声のように受け入れてしまうことです。


最近アマゾンで観たドキュメンタリー風の映画『ハンナ・アーレント』は、ナチスの戦犯がもともと『どこにでもいる平凡な人々』であったことを浮かび上がらせています。


人は自分の頭で考えることをやめると、人間の最も崇高な資質である「自分の意志」を放棄し、同調圧力に簡単に屈してしまう。その結果、ごく平凡な人々が世界を揺るがすような悪に同調し、加担するようになり、次第に自分が悪を行なっていることにさえ気づかなくなる、という恐ろしい現実に警鐘を鳴らしています。



ハンナ・アーレントはドイツのユダヤ人家庭に生まれ、第二次世界大戦中にアメリカに亡命したアメリカの歴史家、哲学者です。


この映画では、ホロコーストの中心的犯罪者の一人であるアイヒマンの裁判に関する彼女のリポートがいかに世間を騒然とさせたか、そして「悪の平凡さ」というテーマを追求する彼女の揺るぎない信念が描かれています。


ホロコーストとは、第二次世界大戦中にヨーロッパで起こったユダヤ人大量虐殺のことです。


1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツとそれに協力した者たちにより、ドイツ占領下のヨーロッパ全域で、ヨーロッパのユダヤ人人口の約3分の2に当たる約600万人のユダヤ人が殺害されました。


アイヒマンはユダヤ人の死の収容所への強制送還を組織し指揮する責任者でした。


イスラエルでのアイヒマン裁判に基づいたハンナのリポートは、ユダヤ人仲間から非難され、世間を動揺させます。


この映画で私が最もうなったシーンは、大勢の学生を前にしたハンナのスピーチでした。


その一節を訳してみたので、ご紹介したいと思います。


(映画のオリジナル言語である英語は日本語の後に続きます。)


アイヒマンのようなナチスの犯罪者の何が問題かといえば、彼らが人間としての資質をすべて放棄し続けたことだと言えるでしょう。
あたかも罰せられるべき者も許されるべき者も存在しないかのように。
彼は検察側の言い分に対して、再三にわたってこう反論しました。
「自分で考えて実行したことは一度もない
善意も悪意もまったくなかった
ただ命令に従っただけだ」と。
この典型的なナチスの弁明は、世界最大の悪はごく平凡な人々によって引き起こされるものである、ということ明らかにしているのです。
彼らには、悪を実行しようとする動機なんてないし、信念もないし、邪悪な心や悪魔のような意図もありません。
人間であることを拒否した者たちがやったことなのです。
そして、この現象こそ、私が「悪の平凡さ」と呼ぶものなのです。
中略(…)
私はアイヒマンの擁護などしていません。
私は彼の驚くべき凡庸さと、彼の犯した恐るべき行為を結びつけようと試みただけです。
理解しようとすることは、許すことではありません。
理解することは私の責任だと思っています。
それはこの問題について書くことを選んだ者の責任なのです。
ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考を「自分自身との静かな対話」と呼んでいます。
人間であることを放棄することで、アイヒマンは人間として最も重要な資質である「思考する能力」を完全に捨て去りました。
その結果、彼はモラルに基づいた判断ができなくなってしまったのです。
この「思考する能力」の欠如が、ありふれた平凡な人間に、前代未聞の大悪事を働かせるだけの力を与えてしまったのです。
これは真実です。
私はこの問題を哲学的に考えてみました。
“思考の風”の正体は知識ではありません。それは、美と醜、善と悪を区別する能力なのです。
そして、この思考こそが、このような危機的状況において、人々に大惨事を未然に防ぐ力を与えるものであることを私は願っています。
********
The trouble with a Nazi criminal like Eichmann was that he insisted on renouncing all personal qualities.
As if there was nobody left to be either punished or forgiven.
He protested time and again, contrary to the prosecution's assertions, that he had never done anything out of his own initiative, that he had no intentions whatsoever, good or bad,
that he had only obeyed orders.
This typical Nazi plea makes it clear that the greatest evil in the world is the evil committed by nobodies.
Evil committed by men without motive, without convictions, without wicked hearts or demonic wills.
By human beings who have refused to be persons.
And it is this phenomenon that I have called the banality of evil.
(…)
I wrote no defence of Eichmann.
But I did try to reconcile the shocking mediocrity of the man with his staggering deeds.
Trying to understand is not the same as forgiveness.
I see it as my responsibility to understand.
It is the responsibility of anyone who dares to put pen to paper on the subject
Since Socrates and Plato, we usually call thinking "to be engaged in that silent dialogue between me and myself."
In refusing to be a person, Eichmann utterly surrendered that single most defining human quality: that of being able to think.
And consequently, he was no longer capable of making moral judgments.
This inability to think created the possibility for many ordinary men to commit evil deeds on a gigantic scale, the like of which one had never seen before.
It is true.
I have considered these questions in a philosophical way.
The manifestation of the wind of thought is not knowledge, but the ability to tell right from wrong, beautiful from ugly.
And I hope that thinking gives people the strength to prevent catastrophes in these rare moments when the chips are down.
映画「ハンナアーレント / Hannah Arendt」より

私たち人間が他の生物と明らかに違うのは、「思考する能力」を持っていることです。


ハンナ・アーレントが言うように、「思考」とは知識ではありません。


「善と悪、美と醜を区別する能力」なのです。


この素晴らしい能力を生まれながらにして持っている私たち人間は、さまざまな方向からやってくるさまざまな形の同調圧力のために、決してそれを手放してはなりません。


ハンナ・アーレントがその生涯を通じて追求した「悪の平凡さ」というテーマについては、今後も取り上げていきたいと思います。


宇宙の原理において、悪には絶対的な定義があるのをご存知ですか?


詳しくはこちらの記事をご覧ください。




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